嵐後、いいお天気が続きます

Kです。ここ一週間だらだらしていました。ゆっくりした時間を味わうと、今までのせかせかしていた毎日に対して反省しなければ、ということも考えたり。自分も行き(生き?)急いでいたなあ、なんて考える。そんな今日この頃です。

イヴェントが中心のアート・スペースであるため、どんなに時間をかけてやったことでも一日で終わってしまう。そこから得たものはたくさんあるけど、それが本当に良かったのか、なんだったのか、を考える前に新たな次の企画がやってきたり。また、自分の中で唱えていた「ひとつひとつのアート活動を丁寧に行うこと」もイヴェントがぽんぽん始まってしまうと、やはりそこで丁寧さが欠けてしまう時もあったり。

アートの生産と消費について、またその速度について、個人的にここ数年考えていたけど、あらためて再考しています。
運動体としての活動をベースとしている機関で、展示、ディスカッション、プロジェクト型のイヴェントなど様々な企画を行いました。美術館よりも展示に特化せず、すべてを均等に扱う。果たしてそれって可能なことなのか。

gsgpの活動を意識して見てもらわないとわからないことですが、ひとつの実験として、展示期間中にその展示に全く関係ないイヴェントを行ったりもしました。スペースが小さいので、同時進行をすると、双方にとって支障が生じます。当たり前ですが、イヴェントが展示の場で行われると、展示だけをゆっくり見ることができなくなってしまいます。
そうした中で、あらためて「展示を見る」という大切さにも気付いたり。「展示を見る」つまり「鑑賞する」ことは、単なる視覚的な問題ではないのだなあと思いました。その空間を、静かに、視覚とともに、体で体感することによって、鑑賞が成り立つのだと。
なんて、作品(もの)を見ることの良さを、当たり前の良さではありますが、そうしたことを気付かせてくれました。

オブリストが自身の活動を「マラソン」って言っているけれど、あんなに膨大な活動をしているにも関わらず、それに対して継続している体制として「マラソン」と言っている姿はやはりすごいなあ。あんなに早く、あんなにも多く、彼はどれだけの距離を走り続けているのだろう。

あらゆるアート活動が飽和状態にある中で、自分の活動や、まわりのアート活動に対してもいろいろ考える。本当のアートってなんだろうな。何をアートとして活動しているのだろう。

けど、また何かが始まると急ぎ足になってしまうと思うので、こうした至極当たり前の問いを大切にしつつ、今後もgsgpをやっていきたいなと思いました。

今日はお花見。毎年最後、最後と唱えている大学の桜をまた見てしまう。いいかげんにしなきゃと思いつつ、また見ちゃう。今年が最後かもしれない、そんな気持ちを大切に思いつつ、この場所でのお花見を楽しもうかと思います。(K)